お知らせ
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8月9日に在日本韓国YMCAホールで開催された「関東大震災85周年・朝鮮人犠牲者追悼シンポジウム」に参加しました。主催は同シンポジウム実行委員会です。満席で映画や盛りだくさんの講演が続きました。 関東大震災があったのは1923年(大正12年)9月1日。1日の昼に地震が発生して2日にも余震が続き東京と神奈川一帯で10余万人の死傷者が出るという大地震でした。翌日「戒厳令」が布かれ、陸海軍が出動。その中で「朝鮮人が暴動を起こして攻めてくる」「朝鮮人が放火し、井戸に毒を投げ込んでいる」という噂が流され、内務省がこれを認めたこともあり、東京・神奈川・千葉・埼玉など各所で「朝鮮人狩り」が始まりました。警察・軍隊によるもののほか、民間の自警団によるものもあり、6000人余の朝鮮人が虐殺されるという大惨事が引き起こされたのです。ほかに、多くの中国人留学生にも被害が及び、また、日本人の労働運動家(河合義虎・平沢計七)、無政府主義者(大杉栄・伊藤野枝)らも殺害されました。 なぜこんなことが起きてしまったのか?この時の日本はどういう状況だったのか? 1910年日本は武力により韓国を併合し、天皇の名の下に植民地支配をしていました。しかし、1919年3・1独立運動を契機に朝鮮民衆の民族解放運動が大きく発展していきます。これに対し日本は警察と軍隊による武力弾圧を全力で続けていたのです。でも、このような実状は日本の民衆には知らされず、逆に新聞報道で、日本人に危害を及ぼす「不逞鮮人」のイメージが広められていました。 しかも、震災当時の警視総監・赤池濃は、3・1人民蜂起当時の朝鮮総督府警務局長でした。治安担当部署であった内務大臣・水野錬太郎ら内務省は、震災直後の大混乱で、民衆の不満の矛先が権力側に向けられることに恐怖し、「朝鮮人暴動」なるものを作り出し、戒厳令で武力制圧をしたのです。本当に許せません。私たちは、このことを語り継いでいかなければならないと思いました。絶対にくり返さないために。 この日の講演で印象的だったのは、山田昭次さん(立教大学名誉教授)の「関東大震災の前夜には朝鮮人社会主義は・労働者と、日本人社会主義者・労働者との連帯行動が生誕し、これに対する治安当局の大弾圧がすでに開始されていた」というお話しでした。関東大震災があった年の前年のメーデー(第3回)に朝鮮人労働者・白武(ペクム)氏らが初めて参加し「ブルジョアには国境があっても、我々には何の国境があろうか」と演説したこと。すると、数千の日本の労働者が熱烈に歓迎したこと。第4回メーデーの準備協議会で「植民地の解放」がスローガンとして採択されたこと(メーデー当日は警視庁がこのスローガンを禁止した)など、85年前の日本の労働者と在日朝鮮人労働者の連帯がとてもうれしく、感動しました! (事務局S) |
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